台湾 観光 士林 芝山厳公園 日本統治時代の教育の聖地で六氏先生のお墓参りをしよう

日本統治時代の台湾 – Wikipedia

Wikipediaより引用

台湾における日本統治時代とは、

日清戦争の結果下関条約によって台湾が清朝(当時の中国)から日本に割譲された1895年(明治28年、光緒21年)4月17日から、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に返還された1945年(昭和20年、民国34年)10月25日までの時代である。

この50年間を日本統治時代という。

台北市芝山岩に最初の近代教育を行う小学校(現在の台北市士林国小)を設置、義務教育の実験校とした。

その後六氏先生事件なども発生したが、総督府は教育政策を推進し、翌年台湾全域に国語伝習所を設置するなどの教育機関の拡充に努めた。1898年(明治31年)、国語伝習所は公学校に昇格している。

六氏先生とは、明治28年、日本の台湾統治後に初めて開校された学校「芝山巌学堂」に赴任したが、抗日ゲリラに襲われ殉職した6人の日本人教師のこと。

楫取道明(山口県、38歳)▽関口長太郎(愛知県、37歳)▽中島長吉(群馬県、25歳)▽桂金太郎(東京都、27歳)▽井原順之助(山口県、23歳)▽平井数馬(熊本県、17歳)。

芝山巌学堂跡は、李登輝総統時代に「教育の聖地」として公園化も進んだ。

 

義務教育発祥の地

生徒は6人から始まり、21人になり3組に分けた。
1年後は300人になり
シリン(志林)小学校を建てた。

6人の先生は現地の人に襲われ殺害された。
国の役人として派遣した官僚が亡くなったので、伊藤博文が碑を建てた

来年125周年

学問の神なので、
受験生がお祈りに来る。

いただいたお菓子は落雁みたいだった

芝山厳恵済宮提供
タイ湾における日本教育
ちらしより

明治28年4月17日締結された馬関条約によって、台湾及び澎湖島が日本の統治となり、同年6月17日、台北城内で日本統治の始政式を行った初代の総督樺山大将は元東京師範学校長であった伊沢修二を学部長に任じた。
翌18日台北に総督府学務部を創設した。住民の多くは難を他に避けていたので、学校開設の身込みも立たなかった。そこで学者季春生の紹介を得て、6月26日台北を北に距離2里余、八芝蘭士林街に移した。この地は山紫水明の地であり、且つその名のように、多くの儒者、漢学者が住んでいた。
教育事始まり、炎暑と  の地タイ湾で、しかも言葉は通ぜず、漢字を書き筆談によって現地人(台湾人)の子弟を集めての教育をした。
伊沢は学者の子弟6名を集め、ここに芝山岩学堂を開設し、日本語教育を開設するとともに、6氏に台湾語を習得させ、台湾の調査研究を進めさせていたが、全島平定の報に接し、樺山総督に随行し、台南に入城した。
同年10月29日、伊沢は北白川宮能久親王の遺骸を奉持し、案平から西京丸に塔じて帰国した。そして留守を楫取道明(山口県)関口長太郎(愛知県)中島長吉(群馬県)桂金太郎(東京都)井原順之助(山口県)平井数馬(熊本県)の6氏に託していたが、翌29年1月1日、北部一帯に蜂起した島民台北城を包囲した。
6氏は総督府の新年祝賀に参列するため、台北に向かったが、渡船がないため引返し、楼上に鳩首している処へ島民襲来の内報に接した。そして守るも死、攻めるも死とあらば、進んで るるこそ、日本男児の本懐ではないかと、 議一決、小使小林清吉に危急の際とるべき策を示し、6氏揃って山を降りた。そして進路を士林に向かって進んだが頼昌の放った一発に端を発し、獅子奮迂したが 寡敵せず、ついに 首され、芝山厳下一縷の煙と化してしまった。
後、その犠牲となった6人は芝山厳神社の祭神となり、6氏先生と崇められ、その功績は讃えられた。
その後首相伊藤博文の来台を機に、「学務官 遭難之碑」と刻まれた丈余の碑が建てられ、毎年2月1日総督以下文武百官を始め、全島の学生や一般市民によって、盛大なる祭祀が行われ、6氏先生として崇められいわゆる「芝山厳精神」として台湾教育の礎石となり、多くの教育者を奮起せしめたのである。

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